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  • 執筆者の写真nigetasakana1231

逃げた魚年表

僕の32年間を出来るだけ簡単にまとめてみました


1991年8月4日

滋賀県の琵琶湖の西側の片田舎に生まれる

音楽好きの父親の影響もあってか、歌う事が好きな子供だった。物心がつく前の音楽に関する1番古い記憶は、父と一緒に童謡のような曲を作った記憶だ。タイトルは「星のぞうさん」

好きなキャラクターはニャッキーとピングー。


1995年7月9日

弟が生まれる

しかし弟の先天性の肝臓の病気が発覚し、母の肝臓を移植。その後も父と母は入退院を繰り返す弟につきっきりであった。主に祖父と祖母が幼い自分の面倒を見てくれた。


ある日、近所の子供に犬の真似をさせられている僕を見て、祖父はカンカンになって僕を叱りつけた事があった。いじめられているという感覚すら分からなかった幼い僕は、何故怒られたのかあまり理解出来ていなかった。だって、僕が馬鹿なことをしたら、みんな笑ってくれていたから、それでいいと思っていたんだ。


初めて大勢の前で歌ったのは、町民運動会の催しの途中。校長先生とかが乗る台の上で、何故かウルトラマンダイナをアカペラで歌った。司会のおじさんは、ウルトラセブンって紹介してたけど。


1998年

小学校入学

この頃から内気な性格で、運動会のかけっこでも他人に道を譲るような優しい子だったと母は語る。

弟の容体も安定してきていて、たくさん一緒に遊んだ。弟は僕より運動が得意で気も強くて、ゲームもいつも僕が負ける側だった。

父と祖父の仲が悪く、よく母は泣いていた。2人が殴り合いの喧嘩をした時、母は僕と弟を車に乗せて従兄弟の家に連れて行った。結局、翌日には帰ったけれど、平日の夜のいきなりのドライブはなんだかワクワクして楽しかった。いや、泣いている母に笑って欲しくて、無理矢理楽しいフリをしていただけかもしれない。


この頃聞いていた音楽は、ウルフルズや嘉門達夫。音楽というよりは、お笑いを聞いて笑ってる感覚だったかな。バンザイよく歌ってたな。


2004年

中学校入学

気が弱くて怒らないキャラだったから、みんな僕のリアクションを見て楽しんでいたんだと思う。輪ゴムで攻撃されたり腕をつねられたりヘビ怖いをされたり、かわいいものだったと思う。だけど、複数人から毎日そんな地味な嫌がらせが続いて、その度に面白いリアクションを取ってみんなを笑わせている内に、なんだか死にたいと思うようになった。ある日限界が来て、親と先生に相談をした。

次の日、全校生徒が集められ、先生は僕がいじめを受けている事を全校生徒の前で公表し、注意した。

確かにそれで、嫌がらせはなくなったけど、僕と目を合わせようとする人はほとんどいなくなった。

「チクリ」。影でそう言われていたんだと思う。

僕はいない人になって、透明人間のように残りの中学生活を過ごした。


中学の時に父から何度かギターを勧められたけど、Fのコードでつまづいてすぐ辞めている。ギターは弾けなかったけど、この頃からたまに歌詞を書いていて、頭の中でメロディをつけて妄想をしたりはしていた。小学校卒業時に担任の先生が歌ってくれた森山直太朗のさくらに感動して、森山直太朗のような歌を作りたいと思ったのがきっかけだったと思う。僕の音楽の原点だ。


2007年

高校入学

僕をいじめていた人がいない、進学クラスに入った。クラスでは相変わらず半透明な存在だったけど、部活の存在が僕の心の支えになっていた。演劇部に入部した僕は忘れていた人の優しさに触れて、自分を取り戻せた気がしていた。

そして、初めての彼女が出来た。部活の先輩だった。中学の頃の暗い自分はもう居なくなったと思い込んでしまった。

先輩が卒業してしばらく、唐突に別れを切り出された。僕は激しく動揺して、無言で駅へと歩き去る彼女の背中を必死に追った。だけど、彼女は一度も振り向く事なく見えなくなってしまった。

その時、初めて本気で死のうと思った。変われたと思っていた自分は、何も変わっていなくて、ただ惨めで弱い自分が、ただ歩道に突っ立って涙を流していた。

橋の欄干に手をかけ、下を覗きこんだ。穏やかに流れる川が春の陽の光を反射して、とても綺麗だった。ここから飛び降りれば、こんな惨めな自分の人生とお別れ出来るだろうかと考えた。そんな勇気はなかった。


部活の先輩の影響で下北沢系ロックバンドにはまったのはこの頃。BUMPをはじめとするいわゆるロキノン系を片っ端からTSUTAYAで借りて聞きまくっていた。

本格的にギターを練習し初めたのもこの頃で、初めて人前で披露した曲は、ランクヘッドの桜日和。


2010年

大阪芸大入学

高校は進学クラスだったけど、途中から全く勉強する意欲がなくなってしまって、数学で0点を取ったりと成績は最悪だった。模試の判定も、どんどんランクが下がって行って、彼女にもフラれて自暴自棄になっていた自分を救ってくれていたのは、やっぱり音楽で、中でもsyrup16gというバンドは僕にとって大きな存在だった。こんなバンドがしたいと思った。

小説が好きで、演劇部で脚本を書いた経験もあった僕は、大阪芸大の文芸学科のA.O入試を受けて、全く勉強せずに進路を決めた。周りが必死で受験勉強している中、僕はそんな努力もせず小説を一編書いただけで大学に受かってしまった。この頃から、僕は自分が人生という戦いから「逃げた」と自覚するようになった。音楽や芸術は僕にとって逃げ場所であって、少し後ろめたい物でもあった。

今だから言えるけど、大学で本気で小説を勉強したいとは思っていなかった。それよりも、大学のパンフレットのサークル活動紹介のページ。そこにあった軽音楽倶楽部の写真に強く憧れを抱いた。大学に行けば、友達のいない僕でもバンドが組めるんじゃないかと考えたのだ。


そんな不純な動機で入学した大阪芸大には、僕の今までの常識や価値観をブチ壊してくれるようなハチャメチャな人達がたくさんいた。恐らく、中高では排斥されて来たであろう奇人変人。僕のように透明に青春時代を過ごして来て、音楽や芸術だけが拠り所だった人が一同に、その大学に集っていたのだ。

芸大での四年間。正確には軽音楽倶楽部での四年間は僕の人生の価値観を大きく変えた。

ここには書ききれないほどに、多くの辛い経験や恥ずかしい思いもたくさんした。だけど、その全てが今は宝物だったと言える。


2011年

バンド結成

サークルの同期のリカヲと当時のドラマーで「アサモドキ」というバンドを結成した。ほとんどがコピーバンドだったサークルでは珍しいオリジナルのバンドだった。下手くそだったから、学祭のメインステージの審査にも落ちたし、なかなか思うようにギターが弾けなくて、落ち込んでばかりだったけれど、バンドをしてる時、ライブをしている時は本当に楽しくて、本当に生きている感じがした。それは今も変わらない、僕のライブの原点だと思う。


2014年

就職

そんな楽しかった大学生活もあっという間に終わりが近付き、皆それぞれの進路に向かって動き始めていた。既に講義もロクに出ていなかった僕は上京してバンドで食べて行こうと安直に考えていた。

もちろん、親には激しく反対され、渋々就職活動を始める事になった。リカヲも就職するみたいだったから、就職してもバンドは続けようと約束して、なんとか一社内定をもらう事が出来た。安心したのも束の間、単位ギリギリで進級してきたツケが四回生の時に回って来たのだ。なんとかギリギリの卒業単位数を数えて必死に単位を取ったが、数え間違いで一単位足らずに留年。内定をもらった会社には頭を下げてバイトで、採用してもらうことになり、その一単位の為だけに隔週で大学へ通うはめになった。

一年後。無事、正社員として入社したものの、色々な事が重なって、結果2年目の途中でその会社を辞める事になった。


2016年

実家へ戻る

最初に就職した会社が、肉体的にも精神的にもやはり1番しんどかった。厳しい上司と、空調のない地獄のような職場環境。

詐欺まがいの訪問販売で50万の布団を契約させられたり、スタジオに向かう電車の中でエフェクターボードを置き忘れて無くしたのもこの頃。エフェクターを買い直すのにアコムで借金をしてしまい、さらには50万の布団の毎月の支払いが重なり、お金も底を尽きて精神もボロボロになった僕は仕事で手を数針縫う怪我がトドメとなって、せっかく正社員になった仕事を1年で辞めて、滋賀の実家へ戻る事となった。


今、思い返しても人生で1番辛い時期に、「それでも世界が続くなら」や「3markets(株)」に出会えたのは幸運だった。この2バンドには本当に助けられていた。夜勤残業明けの朦朧とした意識の中、爆音で彼らの音楽を聞きながら涙を流して眠った記憶は、僕のロックに対する憧憬そのものだった。


バンドでもライブハウスに出始めた頃で、様々な出会いがあり、良い経験も苦しい経験もたくさんした。今でも友達でいてくれるバンドマンの友達とも出会った。2016年にはゲストにスリマの風間さんを迎え、アサモドキの1st miniALBUMのレコ発を行った。この時の初めてのフライヤー配りで、唯一声をかけてくれたのが今の奥さん。

実家へ帰る事になって、活動を休止したのはその矢先の事だったと思う。


2017年

アサモドキ全盛期

実家へ戻った僕はなんとか再就職し、バンドも再開。滋賀の田舎から電車で2時間かけて大阪へ行っていた。もちろん、以前のように頻繁に活動する事は出来なくなったけれど、少しずつライブの手応えを感じ始めていた頃だったと思う。ミナミホイールに出たり、2018年冬には、憧れだった「それでも世界が続くなら」を呼んで、アサモドキの2nd miniALBUMのレコ発を行った。あの日、ダブルアンコールで、ギターの音が出なくなってそれせかのしのさんがギターを貸してくれて、そのギターで最後の曲を演奏した事を、僕は一生忘れない。

イベントの結果も黒字で、アサモドキは今から始まるんだぜ!って、メンバーと打ち上げでラーメン食べた時、今までの辛かった事の全てが報われた気がして、本当に嬉しかった。バンドの楽しさや喜びって、あの事だったんだなと、今となっては思う。


2018年

弟の死

そんなバンドの調子が上向いていた頃。裏腹に、弟の容体はあまり良くなく、料理人を目指していた弟は体調を理由に、働いていた居酒屋を辞めて、実家で療養することとなる。料理人の夢への道が閉ざされ、当然だが弟の心は荒れた。やりたい事があるのに、体が動かない。それは、どれほどキツい事だっただろう。理解のない人から、サボってると誤解されビール瓶で頭を殴られたりもしたという。

そんな理解されない鬱憤や自分の運命を呪って、弟は家族に当たり散らした。ちょっとした事でキレて父に包丁を投げたり、母にもいつもキツくあたった。僕も蹴られたりしたけど、弟は僕をバカにしながらも頼ってくれてたような気はする。親の愚痴もたくさん聞いた。僕も音楽の話をたくさん聞いてもらった。音楽で食べて行きたいこと。もう一度、実家を出て大阪に戻りたいこと。


弟の病気を治すには、再移植をするしかなかった。その、移植のドナーが現れるまで、ひたすら待つか、僕自身がドナーとなるか。家族の中でドナーになれる可能性があるのは、もう僕だけだったのだ。

そして、2018年春。

ついに、その日がやって来る。交通事故で亡くなった男の子の肝臓が弟に移植される事が決定したのだ。手術当日。自分でしっかり歩きながら手術室に入って行った弟の、感謝と希望に満ちた顔を見て、僕は同時に命の尊さと輝きを見た気がした。

だけど、結果は「適合失敗」。迅速に次の移植をしないと、命が危ない状況となった。

選択の余地はなかった。

2度目の手術。お腹に大きく傷が残る生体肝移植。リスクも大きい。死にはしなくても、以前のように歌えない体になる可能性もあった。怖くないわけがなかった。だけど、迷いはなかった。全身麻酔。遠のく意識。一晩、つきっきりでいてくれた彼女。地獄の痛み。数日後。歩行訓練の後、僕は退院。

弟はまだICUの中にいた。

病院の近くの、患者の親族用の1DKの賃貸で父と母と3人で、その夏を過ごす。

2018年7月9日。容体は良くならないまま、弟は24歳の誕生日をICUの中で迎えた。

早くバンドやろうぜって言ってくれたメンバー。

手術の為、出演キャンセルしたイベントの主催と対バン予定だった、それせかしのさんからのLINE。スリマの風間さんからの、まさかの心配のDM。(嬉しかったです)

音楽を通して関わってくれた人がたくさん、心配してくれた。その時、レコ発で黒字を出した時以上に音楽やってて良かったと心から思えた。こんな僕でも誰かを救えるのなら、辛い事だらけの人生でも、こんなに優しい人達がいるのなら。僕はまだ音楽を鳴らしたいと思った。涙が止まらなかった。


そして2018年8月4日。


その日は、久しぶりに誕生日を彼女の家で過ごす為に大阪に向かっていた。彼女の家に着いてすぐに母から連絡があった。引き返す電車の中で、彼女が買っておいてくれた冷蔵庫に置き去りの誕生日ケーキの事をぼんやり考えていた。

弟は僕を待っていたかのように、僕が到着した数分後にICUで息を引き取った。享年24歳だった。


この頃の事は、正直ここには書ききれない。だけど、いつかちゃんと文章にしたいと思っている。きっと、こんな経験は僕だけじゃないから。同じ悲しみを経験した人と、何か分かち合えたらと思っている。


2019年

入籍〜バンド再開

悲しみの淵にいた僕に寄り添い支えてくれた彼女と翌年2月に入籍する。実家の近くの新居に引っ越し、休職していた会社にも復帰。

相変わらず、2時間かけて大阪に通い、バンド活動も継続。ライブも再開。

お腹の傷は痛かったけど、それでももう一度歌わせてもらえる場所がある事が嬉しかった。

年末には初のツーマンライブを企画。しかし、さらに翌年2020年4月に当時のドラマーが脱退。

その後は、2人のサポートドラムに協力してもらい、ファーストフルアルバムの音源制作メインの活動へシフト。コロナ禍の影響もあり、ツーマンライブ以降、バンドのライブは一度もしていない。

正直「このアルバムを出したら音楽辞めよう」と思っていた。


2021年

無事、1st full ALBUM「とある」を発売。だけど、この頃には音楽のモチベーションがかなり下がっていて、レコ発ライブもツアーも何もしなかった。実質、活動休止。

生活から音楽が消えた。ゲーム制作に興味があった僕は、この年は音楽せずにずっとゲームを作っていた。


2022 年

転職〜ソロ活動開始

仕事がかなり辛かった時期で。連日の長時間残業と休日出勤に加え、1人だけどうしても怖い人がいて、いつも怒られないかビクビク仕事してた。ある日、またミスをしてその人に怒鳴られた。

それまでもミスをして怒られたりすると、中学でいじめられていた惨めな自分がフラッシュバックして、動悸が激しくなって眩暈で倒れたり、膝から崩れ落ちてみっともなく泣いてしまう事が何度かあった。そして、その日は疲労も重なってか、今すぐ死にたいと思って、会社を飛び出して近くの真冬の川へ飛び込んだ。希死念慮は元々あったけれど、実際に行動してしまったのは、多分この時が初めてだったと思う。結局、その程度で死ねる訳もなく妻の支えもあって、2日後には仕事に戻ったのだけど、この日以降、本気で転職を考えるようになった。


そして、2022年春。転職に成功し、再び大阪へ引っ越す事となる。片道2時間の制約もなくなったので、もう一度バンドを再開しようかと考えていた。

そんな時、大学のサークルの後輩であるフクイフユコさんと彼女の結婚パーティーライブで再開し、学生時代にやっていたsyrup16gのコピバンをした事をキッカケに彼女はアサモドキに正規ドラマーとして加入してくれる事となった。

それが、僕にとっては本当に希望の光で、音楽をもう一度やりたいと思わせてくれた出来事だった。

フユコさんとライブをしたのはたったの3回だったけれど、音楽に対するモチベーションがこの年に一気に回復したと思う。新曲もたくさん出来た。


そして2023年1月のライブ後、リカヲとフユコさんが家庭の事情でバンド活動を休止することになった。アサモドキ結成時から、ずっと隣でベースを弾いてくれていたリカヲが初めて「休みたい」と言って来た時は正直ショックだったし、せっかく再開したのにもう休止してしまうのかと憤りもした。

でも、思えば僕が実家へ戻った時も、弟の手術をした時も、何度もバンドを休む僕を、いつも待っていてくれたのはリカヲの方だった。今度は、僕が待つ番だ。それまで、音楽への想いを途切れさせないようにしよう。

そんな想いで、僕は「逃げた魚」というソロ活動を始めた。もちろん、そんな綺麗な理由だけじゃなくて、バンドという縛りをなくして、自分で好きなようにやりたいという気持ちもあった。リカヲとは何度も意見が食い違ったし、けっこう口がキツいから結構凹む事が多かった。だけど、今となってはそんな食い違いもバンドだからこそで、自分の思うようにならないからこそバンドなんだと思うようになった。ソロ活動を初めてみて、「やっぱバンドっていいな」「メンバーがいるって尊いなぁ」と思うようになった。またいつでも再開しようぜ。新曲たくさん書いて待ってるから。


2024年

サポートメンバーを迎えて4人組バンド編成でのライブが決定。昨年末にリリースした弾き語りアルバム「埋没」から「もしも僕が僕だったなら」のミュージックビデオを公開。現在に至る。



追記:

大阪に引っ越す1年前に祖父が胃癌で亡くなった。「もしも僕が僕だったなら」の歌詞の中に出てくるじいちゃんばあちゃんの、じいちゃんはもう居ないのである。歌詞を変えるべきかもしれない。でも、歌っていうのは時間が経てば嘘になる言葉があって当然なんだ。今、その時その場所で思った事を書いてるんだから、時間が経てば人は死ぬし、気持ちも変わる。この先、ばあちゃんも僕の犬も父も母も君も居なくなる。そして僕も消えてなくなる。それでも、歌は残っていく。それが悲しい事なのか愛しい事なのか、僕には分からないけど、誰かがこの歌を覚えていてくれる限り、本当の意味で僕らは居なくなる事はない。それはなんとなく、とても尊い事だと分かる。

あの日、じいちゃんが犬の真似をさせられている僕を見てカンカンになって怒ってくれた理由。今ならなんとなく分かる気がするよ。ありがとう。

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