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  • 執筆者の写真nigetasakana1231

9月になり、僕は仕事に戻った。約2カ月、急に仕事を休んだ事を上司や同僚に詫び、少しずつ仕事の勘を取り戻して行った。

 仕事中も、あの夏の日々を思い出す度に涙が滲んだ。それでも前を向けたのは、多くの人の支えがあったからだ。


 しばらくしてバンドで知り合った友人がたこ焼きパーティに誘ってくれた。その後、みんなで桃鉄をやった。

 メンバーと今後について話せたのは、随分と時間が経ってからだった。

「こっちはいつでもお前を待ってるから」

「僕はドラムが叩けたらそれでいいです」

 曲を書く事も、あの時は二度と出来ないと思っていた。だけど、1カ月も経てば僕はまた曲を書いていた。タイトルは「誰か」。


 10月には彼女と広島旅行に行った。宮島で僕は彼女に改めてプロポーズをした。静かな波が打ち寄せる日暮れの防波堤で、僕は人生で一番幸福な瞬間を迎えた。人生で一番不幸な出来事があった、2カ月後のことだった。

 翌年の2月11日に僕らは入籍し、実家の隣町の小さなアパートで新しい生活を始めた。


 そして、3月には豪雨で中止になったサーキットフェスの振替公演が行われ、僕らはその日にバンド活動の再開を果たした。

 手術の傷はまだ完治しているとは言えなかったが、全てを音楽に込めて歌った。終演後、憧れの先輩と主催の友人と抱き合って再会を祝った。

 

 大切な人を失った。それでも、僕の人生は続いて、大切な人はむしろ以前より増えた。

 あの日、僕の身体の一部は弟と共に焼かれ煙となって空に登って消えて行った。同時に僕の精神のある側面も、確かに消えてしまった。それは自分の夢を叶える為に努力する純真さや、自分の正しさを信じて貫き通す強さといったものだろう。

 そして、僕に残ったのは、人はいつか必ず死ぬという無常感から生じる諦観や無気力。自分のせいで、また誰かが悲しむという恐怖から生まれる、自己実現への否定的感情。そして、兄弟がいなくなったという途方もない寂寥感と、それを埋めてくれた人々への愛だった。


 人は失った物を埋める為に生きるのかもしれない。幸福な事に、僕の周囲にはそれを埋めてくれる人がたくさんいた。それに気付けただけでも、僕は報われていると思った。

 何かが終わって何かが始まる。そのエネルギーの正体は喪失感なのかもしれない。

 

 父は以前にも増して、自営業に力を入れ出したし、母は多肉植物を育ててマルシェで売ったりと、趣味に没頭するようになった。

 自分も早く弟の元へ行きたいと、願った瞬間は何度もあった事だろう。それでも、僕ら家族を一つにし、前を向かせてくれたのは弟が難病を抱えながらも必死に生き抜いた末に残した言葉だった。


 ――すべてに感謝――


 幼い頃から、周りと同じように出来ず、たくさんの涙を飲み込んだ事だろう。自分の夢さえ諦めざるを得なかった。そんな、彼が最後にこの世に残した言葉を僕は決して忘れないと誓った。

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