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  • 執筆者の写真nigetasakana1231

春3

「もうすぐ大阪だよ」

 妻の声で僕は目を覚ます。いつの間にか、僕の方が熟睡していたようだ。

 その日は、新しいアパートを決める為に不動産屋へ向かう日だった。

 

 結局のところ。僕はやっぱりバンドを捨てきれなかった。ただ、あの時と違って、ちゃんと正社員の仕事を見つけて、きちんと親に報告してから大阪へ引っ越す事を決めた。

 

 引っ越しと転職のきっかけは、僕の自殺未遂だった。


「根性が足りん」

 あの言葉が何度も脳裏に蘇る。あの時のように親に心配や迷惑をかけたくなかった。

 だけど、着実に僕の行き場のない心にはダメージが蓄積され続けていたようだった。毎日残業しても捌ききれない仕事量と、度重なる苦手な人の嫌味と叱責により、ある日ついに脳がオーバーヒートしてしまった。


 血迷った僕は会社を飛び出し、近くの真冬の川に身を投げた。真っ白な粉雪が降り積もる、とても寒い日だった。飛び込んだ音は雪景色に吸い込まれ、水鳥は驚いて川面を蹴った。

 制服が水を吸って一瞬で重くなる。口に泥水の味が広がり、痛い程の冷たさが皮膚を刺す。目を開けるなんて、出来なかった。

 流れもゆるやかな下流の川だった。すぐに川底に足が着く。顔を水から引き上げ、粉雪が降る空を仰いだ。濡れた髪の毛を顔に貼り付け、びしょ濡れの制服のまま僕は川を下った。

 辿り着いた琵琶湖の防波堤の先端で凍えながら蹲っていた所を、工場長に発見され連れ戻された。


 その日は帰宅の許可が降り、安全運転で自宅へ戻り、暖かいシャワーを浴びた。あまりの情け無さに、自分でも笑えて来た。きっと、弟も爆笑している事だろう。

 すっかり薄くなった、お腹のミミズを指でなぞる。一瞬でも、早くそっちに行きたいと願ってしまったことを弟に謝った。

「好きなようにやれよ」

 シャワーの音に紛れて、そんな声が聞こえた気がした。


 しばらくして妻が帰って来た。僕がこんな時間に家に居る事に驚きつつも、事情を察してホットミルクを作ってくれた。その温かい液体を身体に流し込みながら、僕は本気で転職を決意した。


 


 大阪では、所々で桜が咲いていた。

 先週、両親と祖母と「もも」で琵琶湖のほとりの桜を見に行った事を思い出す。

 母はあれから、出掛ける時はいつも「ゆうごり」という弟によく似たゴリラのぬいぐるみを連れて行く。ゆうごりは春の陽射しの中で、誇らしげに胸を張っていた。満開の桜をバックに、家族とゆうごりとで写真を撮った。

 みんな、とても良い顔をしている。父とは今ではたまにセッションするくらいに仲がいい。母もよく笑うようになった。

 昨年、弟の後を追うように、祖父は亡くなってしまった。だけど、祖母は80歳半ばとは思えないほど元気だ。もちろん、「もも」も。


 だけど、きっといつかみんなとも別れる日が来る。今、隣を歩く妻ともいつか離れ離れになる。バンドもやがて解散する。それでも、今日この桜の下、僕らは笑いながら歩いて行く。大学に入ってバンドを組むと意気込んでいた、あの頃と同じ気持ちではもうないけれど。きっと、ここが新たな「はじまり」で僕の旅はこれからも続いて行く。


「どんな部屋がいい?」

妻が僕に尋ねる。

「少しはギターが弾ける角部屋がいいかなぁ」

何しろ来週は久しぶりのスタジオなのだ。

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