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  • 執筆者の写真nigetasakana1231

あとがき

この私小説を書き始めたのは6月の初め。弟の7回忌法要が終わった後のことだった。

 母に「あの時の出来事をエッセイにしたい」と打ち明けた。世間から見たら、ちょっと変わっていると思うが、母は僕のSNSを知っていて時々、いいねもくれる。以前、相談もなしに弟のことや家族のことを勝手にブログに書いてしまい、気を悪くさせてしまった経験があった。


 確かに自分の知らない所で、自分が悪者のように描かれるのは誰だって気分が悪いだろう。

弟に至っては許可の取りようがないし、辞めた会社について書く事も問題に発展するかもしれない。


 誰かを傷つけるリスクを犯してまで、何故僕はこの私小説を書こうと思ったのだろう。「逃げた魚」というアーティストとしてのイメージ戦略か。あわよくば編集者の目にとまり、書籍化を夢見たのか。「弟の死」をダシにして、不幸を煮詰めて出したスープはさぞ美味かろう。そんな声がどこからともなく聞こえて来る。


やかましい。


 そうやって、生きれば生きるほど、純粋な『生』から遠ざかってしまう僕らに必要なのは、『忘れないこと』ではないだろうか。


「どうせ書くなら同じ病や苦しみを抱えた人を救えるような内容にしなさい」

昔、勝手にブログに書いてしまった時に母はそう言った。

 だけど、思った。こんな無名の人間がそんなこと書いても誰も読まない。そして、僕は人を救えるような立派な人間じゃない。人の苦しみは千差万別で、その人にしか分からない苦しみがある。自分が病気な訳ではないから、医学的なことは詳しく書けない。それならば、こんな文章は無意味だ。

 数年前からエッセイを書きたいと、ぼんやり考えてはいた。だけど、はじめの1行がどうしても書き出せずにいた。そして、今年の6月。


「移植のエッセイを書きたいから医学的なことちょっと教えてもらえる?」

遠慮がちに尋ねた僕に母は言った。

「医学がどうのこうのより、あんたの感じたこと素直に書けばええんちゃう?」


 作品を通して何を伝えるべきとか、誰かを救うべきとか、あれこれ深く考え過ぎてしまっていた。だから1行目がなかなか書けなかったのだと思う。

 母の言葉に縛られていた僕は、皮肉なことに母の一言で解き放たれた。僕はもしかしたらマザコンなのかもしれない。


 話を戻すが、僕らに必要なのは「忘れないこと」だと思う。物忘れの激しい僕だから、いつも些細なことに悩みがちだ。

 再生数が伸びないとか、集客が0人だとか。生きたまま肝臓を取り除かれて、弟に分け与えた人間が気にすることかよ。

 それでも、僕はすぐに忘れてしまう。生きれば生きるほど、このままじゃダメだとか、一度きりの人生だとかいう他人のノイズが脳に絡みついて息が出来なくなる。他人の尺度じゃなくて、自分が良いと思えるならそれでいいのに。

 

 そして、たまにバカなことをやらかす。あの冬以来、行動に移すことはないが希死念慮は一度も消えたことはない。病気で弟を亡くした人間が何を言っているのだと、非難されてもおかしくはないだろう。

 

 生前。弟もよく「死にたい」を零していた。だからこそ、健康な僕がそれを零すことは断じて出来なかった。きっと笑われるから。


 それでも、僕は弟の手帳に書かれた最後の言葉を信じたい。


――すべてに感謝。生きることは素晴らしい――


 結果的に彼の命は消えた。それでも、あの日病室で見た最後の命の輝きが偽物であったなんて、僕には思えない。あの笑顔が死に行く安堵ではなく、未来への希望に満ちた表情であったと疑いはしない。


 だから、僕はそれを忘れないために、この私小説を書いた。「私」が死ぬまで生き抜くための小説。忘れそうになったら、何度でも読み返せるように。いつか、本にして残しておきたい。




 改めて、事前に完成した私小説を読んでいただき、公開を承諾してくれた父と母。そして妻。作中何度も登場する憧れの先輩こと、それでも世界が続くならの篠塚将行さん。本当にありがとうございました。

 そして、読みにくいブログ形式で最後まで連載を追ってくれた稀有なあなた。あとがきを最初に読んでくれたかもしれないあなた。

すべてに感謝。


             2024/8/21 逃げた魚

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