昔から文章を書くのが好きだった。作文が好きだった。数学で0点を取った事もあるけど、作文の賞も何回か取った事があった。みんな作文が苦手だと言うのが意外だったし、「自分の思い」を素直に書く事に何の恥ずかしさも抵抗もなかった。
それなのに、誰かに面と向かって意見を主張したりするのは昔から苦手だった。相手が目の前にいるだけで「自分の思い」を表に出す事が恥ずかしくて、なんだか怖かった。
それは年齢を重ねても変わらなかった。歌詞の中では、歌にすれば本当の「自分の思い」は言えるのに、ステージを降りて打ち上げで誰かと話す時には、いつも笑顔を貼り付けて話す事が当たり前になった。
昔から僕は少し変わっている子供と見られていた気がするし、みんなが上手くグループを形成していく中で、僕はいつも輪に入れず、一人心の中で好きな歌を口ずさんでいた。
多分、グループに参加する為に必要なのは「自分の思い」ではなく「みんなの思い」を汲み取ってコミュニケーションを取る能力だったんだと思う。僕にはそれが欠落していて、「自分の思い」ではない「みんなの思い」を口にする事は、嘘をつく事だと無意識のうちに自らを律していたんだと思う。その嘘を厭わない人こそが、世に言う「コミュニケーション能力の高い人間」であり、嘘つきは泥棒の始まりなんて言うが、実は社会生活の始まりなんじゃないかと、コミュニケーション能力ゼロの僕には思えてしまう。
上手く社会生活を始められそうになかった僕は、小説家になろうと思って、大阪芸大の文芸学科に進んだ。だけど、授業で無理矢理に本を読まされすぎて本が嫌いになってしまい、講義も課題もサボりまくって単位はいつもギリギリだった。何より、軽音サークルで完全にバンドにハマってしまったのが運の尽きだった。
卒業制作の為に長編小説をなんとか一編書いただけで、その頃の僕はもうバンドの事しか頭になかった。上京してバンドで食って行きたいと親に話した時の、親の驚きと落胆は計り知れない物だっただろう。当然の如く反対されて、仕方なく就職して仕事をしながらバンド活動を続けた。
就職して社会生活を送っていく内に、意外と嘘をついて仕事を頑張る事には慣れていった。だけど、やっぱり僕にとって偽りのない自分を表現出来る居場所は絶対に必要だった。
職場の人と話していても、どうしようもない価値観の違いから生じる心の疎外感を拭いきれなかった。いつまでも心の中では、子供のままの「自分の思い」を叫び続けていた。
そして、その思いを押さえ続けた結果。
一度、僕は壊れかけた。
いつまでも子供の作文のような事を書く自分を、バカにされる事が怖かった。空気の読める「大人」に変わらないといけないと思っていた。僕が書かなければいけないのは、無価値なお気持ち表明の作文ではなくて、感情を排したビジネスの書類なんだと言い聞かせた。それがお金を稼いで生きる事なんだと、みんなが言っているように思えた。
でも、そんなんクソ食らえだと言ってくれる音楽があった。どんな正論だろうと、爆音で全部掻き消してしまうような音楽があった。
音楽だけじゃない。
僕の信じてた価値観や常識を破壊してくれる本にも出会った。今まで小説しか読まなかったから、初めてその哲学エッセイというジャンルの本を読んだ僕は大きな衝撃を受けた。そして、この世界に生き辛さを感じているのは自分だけではないのだと、月並みな表現だけど僕はそれらの芸術に救われたんだと思う。だから、僕は今ここに居て、まだこんな子供の作文みたいな文章を書いている。
エッセイ風セルフライナーノーツ。一度、小説家を諦めた僕が思い付いた、僕が書けそうな題材がこれだった。エッセイを書けるほど僕は大した人間ではないが、自分の曲についてならいくらでも書ける気がする。だって、僕の曲は僕の人生そのものだから。
だからエッセイ「風」。いつか、本を出したいと思っていた僕の夢の残骸を拾うかのように、アルバム全曲を通して、一冊の本になるようなイメージで書いて行こうと思う。多分、一曲ごとにこれくらいの文章量は書くから、文章読むの苦手な人は苦痛だろうから、曲だけ聞いてください。
そして、いつか一枚一枚のアルバム、一冊一冊の本を並べた時に、これが逃げた魚の人生だったと言えるような自伝を残すつもりで、音楽を作り、文章を書いてみる事にします。音楽ではなく、言葉で多くを語るのは邪道だと思う人もいるだろう。だけど僕は多分、昔から音楽そのものというより、そのアーティストの人柄や思考に興味があったのだと思うし、僕は好きなアーティストが言葉を紡いでくれるのは嬉しいから、気にせず色々書きます。
アルバムの曲順に少しずつ書いて行くから気長に楽しみにしていて欲しい。あと、埋没は14曲もあるので一度に通して聞くのはしんどいだろうし、まずセルフライナーノーツを読んで気になった曲を聞いてくれてもいい。逆にアルバムを聞いて気になった曲のセルフライナーノーツだけ読みに来てくれてもいいし、全部読め!聞け!とは言わない。
そもそも、逃げた魚自体が超個人的な活動なのだから。
全部、共感してもらえなくても、「そこは分かる」とか、「それは意味不明」みたいな感想があってもいいと思う。曲も文章も読んだ君の物で、何の役にも立たないゴミかもしれないけど、拾って有効活用してくれたら、この文章や曲も本望だと思う。
僕は音楽も三流、文章も三流。
だからこそ、音楽と文章の二刀流で、この人生と戦ってみたい。
どちらか一方を極めた人の純度には到底及ばない、半端者の紛い物だ。
だから、逃げる。
そんな「音楽だけで戦わないと卑怯」という思い込みから逃げる。
そもそも、ドレミは言葉で 音符は記号。
音は空気振動で、人は空気を吸って吐く。
純文学 サイレント映画 クラシック音楽 白米
どんなに純度の高い芸術だって、結局は言葉が必要で言葉を紡ぐのは人間だからだ。
なら、この気持ちも言葉で表したっていいはずだ。
言葉に頼りすぎるのもいけないことだけど、僕はやっぱり言葉が好きだし、同じくらい音楽が好きだ。やりたかった事、同時にやってみる。二兎を追うもの一兎を得ずかもだけど、結果じゃなくてまずは過程を楽しんでみたい。それが出来るのがソロ、ひいては無所属の良いとこだね。
では、早速一曲目。「無題の人生」という曲について。よかったら、お付き合いください。
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