家出の計画は弟だけには話していた。
「一度実家戻って、それでもやりたいって思うんなら、それが兄貴の一番やりたい事なんとちゃうの?」
弟は難しそうなゲームをプレイしながら言った。
「好きなようにやれよ。俺と違って健常者なんやから。」
口が悪いのは相変わらずだけど、僕はその言葉に結構救われていた。
だからこそ、弟が「助けて欲しい」と素直な気持ちを伝えてくれた時は嬉しかった。
僕は面接を受けたバイトを辞退した。次にバンドの活動休止を宣言し、移植の為の検査を受ける事にした。。
昔から注射が苦手で、一度目は採血で気分が悪くなって断念した。弟に鼻で笑われた。
彼は物心つく前から、何百何千もの注射針をその腕の血管に受け入れて来たのだ。注射ごときで億ついている僕なんかが、果たしてお腹を切る手術など出来るのか。
日を改めた二度目の検査では採血をなんとか突破し、造影剤を入れてのCT検査が行われた。これが一番気持ち悪くて、体中の血管が爆発してしまうような圧迫感に襲われた。
MRIにも初めて入った。閉鎖空間と耳元で鳴り続ける不快な音で、終わった後は完全にグロッキー状態になっていた。
最後に精神科。無理やり移植を強要されていないかなど、ドナーのメンタルヘルスを調べるのが目的だ。ほとんど形式的に、問診は終わり僕は母と共に検査結果を待った。
母も20年前、この過酷な検査を行ったのだろうか。自分の臓器の一部を肉親に分け与えるとは、どういった気持ちなのだろうか。
雪はすっかり溶けて、春の陽気が漂っていた。
検査の結果、ドナー移植は可能だった。しかし、主治医の意見は慎重だった。
手術が成功したとしても、お腹を切るリスクは大きい。ドナーにも後遺症が残る可能性は低いとは言えなかった。
生体肝移植は、本当に最終手段であって、命に別状のない今の弟の状態ではまだ脳死ドナーの順番を待つ方が賢明ではないかという判断が下された。
覚悟を決めていた僕は肩透かしを食らった気分で、以前と変わらぬ生活を続けた。
相変わらず嫌いな人がいる職場で、残業続きの毎日を無心でこなした。
バンドの活動休止の宣言を撤回し、7月のサーキットイベントから活動再開する事を報告をした。彼女と暮らす計画も白紙に戻った。
しかし、以前のような焦燥はもう感じてはいなかった。自分のせいで、あいつを追い込んでしまっていた事を恥じた。優しかった父と、もう言葉で傷つけ合いたくなかった。母を泣かせたくなかった。
自分の意思の弱さで彼女を振り回し、悲しませた事を後悔した。初めてもらったファンレターを読み返した。もう僕は十分成し遂げられていた事を思い出した。
これ以上、焦って求めて何になる。僕は音楽より人を大切にしたいと思った。
人がいなければ、僕の人生はなかった。僕の音楽は生まれなかった。人がいなければ、僕の音楽に価値などない。誰かの心に届いてこその僕の音楽だった。数の多さじゃなくて、心の浸透度だ。
焦った僕は大切な人を蔑ろにした。それで、胸を張って夢を追えるのか。人を傷つけ悲しませてまで、心から歌が歌えるのか。
病気のあいつを放っておいたまま、自分の好きな事だけ出来る訳がなかった。
成功者は笑うだろう。それは、才能もなく努力も出来なかった自分自身を肯定する為の綺麗事だと。それでも良かった。
「自分の人生は好きに生きたらいい。だけど人を幸せにする生き方を選びなさい」
母の言葉を胸の中で反芻する。
雪が溶け。桜が散っても、弟の脳死ドナーの順番は回って来なかった。
生きながら死んでいる。好きな事が出来ないのなら、それと同じだと弟は嘆いた。それなら、リスクがあったとしても一か八か生体肝移植に縋りたい気持ちもよく分かった。
いつでも、僕の肝臓はあげられる。だけど、医師の許可は降りない。ただ、もどかしかった。
「家族旅行に行きたい」
5月のゴールデンウィーク。突然、弟が言い出した。
普段、そんな事は全く言わず、引き篭もっていた弟の口からそんな言葉が出るとは思わず、両親は驚いていた。
久しぶりの家族4人での一泊二日の旅行。行き先は淡路島。海の幸を堪能したり、温泉に浸かったり、家族4人水入らずの穏やかな一時を過ごした。二日目は弟の体調が悪化して、すぐに帰路についた。これが、家族4人での最後の思い出となった。
そして、その1か月後。一羽の鳥が縁側から迷い込んで来た。
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