御百度参りという風習がある。100日間欠かさずお参りに行くか、100回お参りをすることによって、願いが成就すると言われる儀式だ。
病院近くの賃貸アパートから車で数分の場所に「釘抜き地蔵」と呼ばれる有名な仏像が祀られている神社があった。
僕らは毎朝その神社に通い、お参りをしてから病院のICUに面会に行くというのが日々の日課になっていた。
「釘抜き地蔵」とは「苦抜き」の発音が訛って「釘抜き」となったそうだ。釘が刺さった状態が謂わば病に侵され苦しんでいる状態であり、その釘を抜いてもらう事によって痛みや苦しみから解放されるという迷信が残っているらしい。
赤い提灯が下がった門をくぐり、手水舎で手を清め、本堂の正面で両手を合わせる。
「とりあえず10周、回ろうか」と母は提案する。
本堂の横には竹の棒が入った箱が置いてあり、僕はそこから10本を手に取る。左回りに本堂をぐるっと一周して正面に戻って来たら、竹の棒を一本箱に戻す。そして、再び地蔵に向かって手を合わせて祈る。これを100回繰り返すのが御百度参りだ。
午前中でまだ気温は低めとはいえ、10回繰り返す頃には汗ぐっしょりになっていた。それほど大きな本堂ではないので、歩いて一周するのに数分もかからないのだが、何しろ傷が痛む状態で100回お参りをするのは、とても無理だと思った。
10周回った後、僕はとりあえず日陰のござが敷いてある休憩所に腰を下ろし、ペットボトルのお茶をがぶ飲みした。父と母も水分を摂り、2人はすぐに御百度参りを再開した。まるで、自分の罪を懺悔するかのような真剣な面持ちで2人とも無心に祈り、歩き続けた。その姿を、僕は美しいと思った。
梅雨はすっかり明け、大きな夏雲が青すぎる空をゆっくり横切っていた。
七夕はとうに過ぎていたが、色とりどりの短冊が境内の笹に吊るされ揺れていた。笹の葉が擦れ合い、風鈴が鳴る。風が吹く度、それらの音と共に額の汗は乾いていった。
僕はさらに意識を集中させ、目を閉じる。
本堂のガラガラを鳴らす音。別の建物から聞こえる住職の読経の声。境内の砂利を踏む音。アブラゼミの合唱。自らの呼吸音。それらの音に静かに耳を傾けていると、次第に僕は世界そのものになり、世界は僕になった。
なんの不純物も入り込む余地もなく、僕はただ「生きる」という神秘に触れていた。そこに良いも悪いもない。ただ生きて死ぬ。その繰り返しの中で、人々はか細く弱い希望の光を糸のように紡いで来た。
100回お参りをした所で願いが叶うことはないかもしれない。だけど、連綿と受け継がれて来た、人々の生きたい、生きていて欲しいという希望が医療を発展させ、今の弟の命を繋いでいることは確かだ。それならば、願い続けることは絶対に無駄ではない。何百回、何千回だって願おう。
たとえ歩けなくても、心の中で祈り続けよう。小さい頃から、よく分からないまま、おじいちゃんに教えられてお経を唱えていた。だけど、今ならちゃんと分かる。宗教なんて古臭い、胡散臭いと思っていたけれど、僕はこの時ばかりは本気で神様に祈った。
僕はペットボトルのお茶に再び口をつけ、まだ痛む腹を庇いながらゆっくり立ち上がり、本堂の前の箱から竹の棒を10本取った。
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