弟に会えたのは、僕が退院してからだった。手術後ICUに入った弟は、まだ一度も酸素ボンベを外せておらず、透析でなんとか延命している状態だと聞かされた。
明日には。必ず明日には、肝臓が機能を開始するはずだ。親も担当医も、その時が来るのを祈るように待ち続けていたらしい。しかし、1週間経って、僕がお腹の傷跡を抜糸する頃になっても、その時は訪れなかった。
徹底的に消毒し、マスクをして初めてICUがある病棟に足を踏み入れる。まだお腹の傷は痛んで、歩くのは難しかった。普通の病棟とは全く違う空気感に、僕は酷く緊張していた。
1週間ぶりに会った弟の肌は、もともとの色黒がさらに黒くなっていて、正常でない事がすぐに分かる状態だった。
いくつもの管が鼻や手足から伸び、見た事もない機械に繋がれていた。映画やドラマでしか見た事がない心拍を示すモニターが、時を刻むかのように機械的な音を発していた。
「これケミストリーやん」
病室には懐かしい音楽が流れていた。弟が好きだったアーティストのCDが、枕元のラジカセから小さな音量で再生されていた。
「ゆうひの好きな音楽って他なんかあったかなぁ?」
母が僕に尋ねる。
「嘉門達夫とか?」
「それや」
その日以降、まるで病室に似つかわしくない陽気な音楽が流れ続ける事となる。
退院した僕は、しばらく病院近くの1DKの賃貸で寝泊まりする事になった。僕の入院中に父と母が既に入居の手続きをしてくれていたのだ。
そこは入院が長引く患者の親族の為の、臨時の賃貸アパートといった感じで、3人が眠るにはあまりにも狭い部屋だった。僕はベッド。父と母は床で寝袋に包まって、その晩は眠った。
本当に暑い京都の夏だった。傷がまだ疼く僕には、その酷暑の中、病院まで歩く事すら一苦労だった。アスファルトの上で陽炎がゆらめき、蝉の鳴き声が至る場所から聞こえる。車は廃棄ガスを撒き散らし、夏休みの学生が笑いながら自転車で駆け抜けて行く。
街は生きていた。約1週間、無音の病室で過ごしていた僕にとって、久しぶりの外の世界はあまりにも多くの音で満ち溢れていた。そして、そんな世界の一部として、僕もまた呼吸をしていた。なんだか、不思議だった。
その日は弟の24歳の誕生日だった。大切なその日を弟はICUの中で迎える事になった。手術が上手く行っていたなら、今頃弟は元気な姿で笑ってケーキを食べていたかもしれない。しかし、その日のケーキは本物ではなく、ケーキの形をした帽子だった。
両親が弟に誕生日プレゼントを用意していた。新品のスニーカーだ。
「早くこの靴が履けるようになるといいね」
たくさんの病院スタッフが、弟の誕生日を祝いにICUに来てくれていた。
「ハッピーバースデーゆーごーん」
大合唱の後、大きな拍手が起こった。
ずっと、小さい頃から弟を見てきたスタッフもいた。弟は多くの看護師に人気があった。僕にこれだけの人望があるだろうか。僕は誇らしくもあり、少し嫉妬もした。
ICUに居る間。母はずっと弟の手を握っていた。麻酔で意識は混濁しているようだが、僕らがそこにいる事はしっかり分かっている様子だった。たまに、首と目をこちらへ向けて、また目を閉じて眠る。その繰り返しだった。
僕が入院している間も母はこうやって、ずっと弟の回復を祈っていたのだろう。そこには、とても穏やかな時間が流れていた。家に居た時は、ずっとギクシャクしていた親子関係が、まるで全て浄化されたかのような光景だった。純粋に子を想う母と、母が居る安堵に満ちた表情で眠る子がそこにいた。
病院の近所のスーパーでお惣菜を買い、3人は1DKの賃貸へ戻った。久しぶりに食べた病院食以外の、味の濃いお惣菜はとても美味しかった。
食後に、メンバーが見舞いに持って来てくれたボードゲームを3人で遊んだ。腹の傷が開くかと思う程に笑った。父も母も大笑いしていた。あいつが居たらもっと楽しいだろうなと思った。
眠る前に、今もICUで意識の狭間を彷徨っている弟の事を考えた。そして、その中で未だ動かない自分の肝臓の片割れを想像した。
――頑張れよ、僕の肝臓……
自分から離れてしまったそれは、最早自分の意思ではどうにもならない、ただの臓器だ。それでも、小さくなってしまった、今僕の中に残る方の肝臓に願いを込めずにはいられなかった。
暑い夏の夜は更けていく。
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