退職届は受け取ってもらえなかった。
「根性が足りん」で一蹴された。
その夜。会社から実家に連絡が入った。
「半人前の息子が迷惑おかけして申し訳ありません」
親は電話越しにヘコヘコ頭を下げて謝るばかりだった。
大阪に戻ってバンドをしたいという僕の願いは、全くと言っていいほど理解されなかった。
バイトの面接が明日に迫っていた僕は、何を言われようが家を出て行く気でいた。
黙って引っ越しの準備を進めていた事を知った父は大激怒し、僕を口汚く罵った。僕は何度も大阪へ行く許しを請うたが、聞き入れてもらえなかった。母も、弟が大変な今出て行くのは有り得ないと強く反対した。
とにかく、もう面接は決まっているのだから今晩は眠って、明日に備えなければならない。しかし、ベッドで横になってもスマホにはひっきりなしに父親からのLINEの通知が届いた。
ありとあらゆる言葉で、これまでの自分のバンド活動を否定された。まるでスパムのように、息子の心が折れるまで現実の厳しさを訴え続けた。
体が憎しみで火照りだし、節々が悲鳴を上げるように痛み出した。見てはいけない、相手にしてはいけないと思いつつも、何度もその文章を読み返してしまい、その度に吐き気と眩暈に襲われる。眠る事はおろか、こんな親と一秒たりとも同じ屋根の下にいたくないと思った僕は、深夜にこっそり家を抜け出し、車を走らせた。
何処へ行くあてもなかった。夜道の運転に慣れていない僕は、いっそ事故でも起こして死んでしまえたらと何度も考えた。深夜のバイパスは交通量も少なく、深い闇を等間隔に照らす街灯が寂しげに首をもたげていた。
一時間ほど車を走らせ、市街地のカラオケボックスに入った。夜遊びなんてした事がなかった僕には縁遠い場所だったが、あの家に居るよりはマシだった。
僕は最も信頼し、尊敬する憧れのバンドの先輩に電話をかけた。深夜のいきなりの、電話だったにも関わらず、親身に僕の話を聞いてくれた。
「俺が例え父親だったとしても、そんなスパムみたいなラインは絶対送らないね。俺は片親だったから、父親の事はよくわかんないけど」
「それでも僕はやっぱり、弟の事だけは見捨てたくないんです」
話をしている内に、僕は本当は家族を深く愛している事に気が付いた。愛していたからこそ、そんな家族に憎しみを抱いてしまった事が本当に悲しかったのだ。
早朝。結局、一睡も出来ずにカラオケボックスを出て、実家へ戻った。まだ、家は眠っているかのように静まり返っていた。僕は自室にあるギターと面接用に準備していたスーツとカバン、そして大切な段ボールを物音を立てないように車に運び込んだ。
その段ボールには僕の青春の思い出が詰まっていた。初めてもらったファンレター。大学の軽音サークルを卒業する時にもらった寄せ書き。バンドを結成した時に3人で撮った写真。彼女と初めて撮った写真。この段ボールと、ギターさえあれば他には何もいらないと思った。
ギターを後部座席。段ボールを助手席に乗せて車のエンジンをかけようとした時、ふとキーを回す手が止まった。
もう帰って来ないかもしれない。
僕は車を降り、母屋とは反対方向にある離れへと向かった。離れの扉を開けると、おじいちゃんとおばあちゃんが驚いた様子でこちらを見た。
「おはよう。えらい早いなぁ」
おじいちゃんが玄関に佇む僕に気付いてこちらにやって来る。
「どっか行くんけ?」
「うん、ちょっとね」
僕ははにかみながら答えた。
「気つけて行きや」
おばあちゃんも挨拶してくれる。
「うん、いつもありがとうな」
よく晴れた冬の朝だった。空気は澄み渡り、空は次第に明るくなって行った。
僕は寝不足のまま、車を最寄駅へと走らせた。
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